「小川大介のアズマ電電伝」第7回です。
今回は、「きほんのき」ならぬ「ぎろんのぎ」のようなことをやりました。
「AはBである。BはCである。従いAはCである。」を紡ぎました。
テーマは、「テーブルにこぼしたマヨネーズを取り除く道具とは」です。
解決したい課題:「テーブルに、こぼしたマヨネーズ、どうにかして!」
こぼれたケチャップやソースに、キッチンペーパーをフワッと覆いかぶせて、取り除こうとします。
でも、どうしても、テーブルに塗り込むように「拭く」ことになってしまいます。
油分が表面に伸びて、気持ちが悪いです。拭けば拭くほど、テーブルに染み込ます作業なのではないのかと、嫌悪感を抱きます。
「道具を使って、拭かずに、取り除くことはできないか」ということで、議論を始めてまいります。
整理1:取り除きたい対象は?
お茶やポン酢など、油分を含まない液体は、「拭く」作業で足りるということになりました。
取り除きたい対象である、マヨネーズ、ケチャップ、ソースなどの共通点は、「油分」「一定の粘性がある」ことを整理しました。
整理2:どこに付着している?
「フローリング、天然木、鏡面石、陶器、磁器、アルミ、ステンレス、ガラス、鏡、メラミンやポリ化粧板」に付着している場合という共通理解をしました。
材質(繊維)に纏わりつく布や紙などは、同じ道具で果たせないと仮定し、除外することにしました。
仮説1:スクレーパーはどうか
「整理1(マヨネーズ)」の物質を、「整理2(木のテーブル)」の表面素材から「取り除く」ためには、「整理1」と「整理2」の物理的な隙間にアプローチして、分離できればよいのではないかということで、スクレーパー(ヘラ状の刃に、取っ手がついた道具)はどうか。
スクレーパーの刃に当たる部分が、金属ではないなど、「整理2」の材質を傷めない工夫はできます。
しかしながら、「整理1」と「整理2」は、摩擦が多く、慣性力を維持できないため、スクレーパーでは解決できないのではないかということになりました。
仮説2:スクレーパーコンベアはどうか
ベルトコンベアのように、ベルト部分に乗っかって運搬されれば、摩擦という課題は解決できないか。
ただし、「整理1」と「整理2」の隙間に入り込む動作は必要であろうこと、また、その入り込むスピードが大切な要素になるであろうことを思慮しました。
仮説3:修正テープの逆回転はどうか
ラジオということで、「いま、なんの話か」をホワイトボードに書いたり、ジェスチャーも使えません。その中で演繹的なアプローチは、頭の体操になりますね。
「修正テープの逆回転」というワードは、形状への共通理解を飛躍させました。
仮説4:修正テープを逆回転にするためには
スクレーパーコンベアを2段にすれば、足りそうです。
仮説5:ダストボックスや貯水タンクは不要か
本ブログの冒頭で、「”AはBである。BはCである。従いAはCである。”という演繹的な議論を目指す」としましたが、ここまで、Aも、Bも、事実ではなく、仮説に過ぎません。
なので、次回は、実際にテーブルにマヨネーズを垂らして、どのように整理Bである化粧板等の素材に油分が残らないように取り除けるかを試してみようと思います。
話は戻り、仮説4の形状で整理1(マヨネーズ等)を整理2(テーブル表面等)から取り除くことができるかも知れない、ということで今回の議論は、ひとつ着地しています。
仮説5は、派生議論です。
議題である「テーブルにこぼしたマヨネーズを取り除く道具」について、取り除いたことで機能として終了するか、若しくは、掃除機みたいに、ゴミ箱が内蔵された道具とするか、を議論しました。
取り除いた都度、毎回洗浄しないと、かなり不衛生です。また、乾燥すると固着するでしょう。
ラジオでは、大根おろし器具の、おろされた大根が溜まるケースが、本体の下にセットされていて、洗えるようにすればいいのでは、などのアイデアが出ましたが、現実的に検討できるところまで至りませんでした。
後記:ラジオ版「ぎろんのぎ」をやってみて
「テーブルにこぼしたマヨネーズを取り除く道具って、どんなのがいいかな?」という議論を行いました。
板書をせず、会話だけで、パーツごとに「今、何の話か」「共通認識している形状はコレか」を3人が互いに確認する作業は、慣れていないので、ちょっと疲れました。板書のありがたさを実感しました。
「いま、同じところに居るよね?ズレでないよね?」みたいな感じだったので、軽い冗談言うのも汗をかくというか、「戻ってこれなくなるんじゃないの?」みたいな怖さもあったかも知れません。
今後:青写真の解像度が上がれば使途を派生できる
議論では、「なぜ、どうして」を説明できないと、ヒトが寄り集まって最適解らしきものを得られないようです。
でも、ヒトの脳というか、意思決定には論理が無いことだらけだそうです。
1日に3,000回も、ヒトは意思決定していて、そのほとんどは、無自覚なんだとか。
ヒトがモノを買う時も、買った後に、買ったことを正当化する作業をしていたり。なぜその商品を選んだのかって、論理なんて無かったり。(ここに書いてました thinkwithgoogle.com )
「こういう時に、こういうモノがあると、これぐらい作業時間が短縮されるから、購入する」というより、言語化されていない「わぁー、いいかもー」(それを直感というのか)を知る方が、商品開発としての確度は高そうです。
論理があったとしても、階層はいくつもないはず。
自分自身が抱いた「わぁー、いいかもー」を言語化せず、感覚的に「あ、これだ」って気付けるようにしておこうと思います。
しかし、議論をするためには、言語的な論理が必要なようです。
紡いだ「テーブルにこぼしたマヨネーズを取り除く道具」が、より具体的に共通してイメージできれば、他にどんな使い方ができるかを探索できますね。
「こういう商品が1万円だったら買いますか」という収集した主観データのパーセンテージは、意味を持たないのだと思います。
知ってるモノの使い方を変えるパターンで、検討してみました。
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